日本の炭鉱世界遺産

世界の炭鉱遺産を巡る旅

連載コラム「世界各地の石炭博物館めぐり」その2 長崎市内の世界遺産めぐり

元気しとんね?今回は長崎市の石炭関連施設の紹介ばい。近年はキリスト教関連の世界遺産登録ばめざしとっと長崎ばい、ばってん長崎ん町そんもとが石炭博物館じゃけん、今回はそいだけの長編けん。
長崎での外国人観光客の珍しさNo1は何でしょうか?それはずばりJapanese Cats(図1)です。旅行ガイドるるぶ情報版長崎で、市内案内をしている「尾曲がり猫」を見つけると、ああラッキー見て、写真撮って写真写真です。全国的に猫の尻尾はまっすぐが普通ですが、長崎ではなぜか、尾っぽが曲がった猫の方が多くみられます。ある統計では80%以上だとか。ゲノム解析した結果、尾曲がり猫は東南アジアが原産。南蛮交易の盛んだった時代、外国船の鼠退治に猫が利用され、船に乗せられていた尾曲がり猫が長崎に居ついたのがだとか。その愛らしさに理由があるからというのはもちろん、何でも中国では、曲がった尾がカギの形に似ていることから「幸運をひっかけてきてくれる」と考えられているそうです。市内の猫さんにも都合があるでしょうからいつも会えるわけではありませんが、長崎の北にある「池島炭鉱さるく」に行けば会えるでしょう。他に今に蘭印起源の名を残すものとして、ジャガイモ(ジャガタライモ)や金魚のオランダシシガシラがあります。ここでは昨年7月に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」23ケ所(図2)のうち、8ケ所を有する長崎市内を巡ることにします。

01.jpg

図1 市内の尾曲がり猫さん

02.gif

図2 明治日本の産業革命遺産所在地

03.jpg

図3 明治日本の産業革命遺産切手

長崎市内は本年7月8日に郵便切手として発行された(図3)の10印面のうち1面に小菅修船場跡が取り上げられているだけですので、石炭との係わりはJcoal Jornal等参照して頂くとして、まずは観光のご案内をさせていただきます。人口43万人を有する長崎市内は、飛行機を利用して行ったとしても高速バスでも市内観光の基点は、JR長崎駅前になることがほとんどです。駅前からは路面電車をはじめとして各方面への観光の拠点になります。では町全体が博物館の長崎を案内開始です。

04.jpg

図4 JR長崎駅前の様子

05.jpg

図5 長崎造船所史料館送迎バス

06.jpg

図6 長崎観光タウンマップ

① 三菱重工㈱長崎造船所史料館コース:

まずは電話(095-828-4134)にて予約が必要です。個人見学の場合JR長崎駅前から8:40から14:55までに6回あるうちの送迎バスに乗車することになります。本年度は毎月第2土曜日と10月23日、12月29日~1月4日が休館日となっております。バスは駅から10分ほどで長崎造船所の正門を通過して、世界遺産に指定された「ジャイアント・カンチレバークレーン」の横を通り、史料館となっている赤煉瓦の建物-世界遺産に登録された「旧木型場」に到着です。明治31(1898)年に鋳物工場に併設の木型場として建設されたものを昭和60(1985)年に改装し、史料館として開設。船舶、タービン・ボイラーなど約900点もの製品の写真・史料や実物が展示されており、安政4(1857)年の創業以来、400隻以上を建造した長崎造船所の歴史を学ぶことができます。希望すれば館内の説明を受けることができます。吉村明の小説にもあるように「戦艦武蔵」も本造船所で建造されました。日本の戦艦燃料はセキュリテイの観点から長門/陸奥までは石炭炊きのできるボイラーで設計され、大和/武蔵から重油焚きになったそうです。三菱グループの解説もあり、修船の為には部品が必要でまたその為の鋳造所も必要で、更にレンガが必要で、結局石炭に行き着き、展示もされておりますが、高島炭鉱の開始が大きいことが説明されております。非公開な施設ですが、「占勝閣」や「第三船渠」の写真解説も受けることができます。全国各地で用いられた、石炭火力設備等が展示されており、当所における創業以来の石炭の重要性が理解でき、石炭利用に係る者ならば一度は訪れておいて損はありません。

07.jpg

図7 カンチレバークレーン

08.jpg

図8 火力発電タービン

09.jpg

図9 旧木型場(造船所史料館)

10.jpg

図10 9戦艦武蔵

11.jpg

図11 破損タービンブレード

12.jpg

図12 三菱グルーフ説明

② 軍艦島(端島)ツアー:

図3の切手の背景になっている「軍艦島」の一部(現在は、坑口等の生産施設跡や数次にわたり拡張された海岸線を示す護岸遺構が残存。崩壊寸前のコンクリート高層住宅群は、大正時代以降に建設されたものであり、顕著な普遍的価値を反映する要素ではないが、文化財としての価値を持つとされています)が、世界遺産となっています。軍艦島に上陸するには5社あるツアー会社(表1)のいずれかに予約して参加する必要があります。各社一人おおよそ4000円程度のようです。交通費の他に長崎市の施設見学料300円がかかります。島の桟橋への接岸の都合上、各社とも100名前後の午前と午後の1便ずつで、余裕があれば当日も乗船できるようですが、波が高いと欠航します。今回は常盤桟橋から7月1日午後出航の「軍艦島コンシェルジュ」を利用して行きました。                           駅前から路面電車に乗ると5分程度で「出島」に着きます。有名なオランダ人居留地出島を今に体験できます。海側は対岸に夜景のきれいな稲佐山を見ることのできる「出島ワーフ」です。かつてここまで鉄道があり、上海航路に接続した「長崎港駅」があったと掲示されています。更に進むと道路山側に「香港上海銀行支店跡」(電停大浦海岸通)の建物が見え、常盤桟橋に着きます。ここが軍艦島コンシェルジェ社の出航地です。後ろは国際桟橋で、この時は5000人乗りの中国船が入船しておりました。軍艦島ツアー船も外国人が多く利用し、国際色豊かな団体となりました。なお軍艦島上陸の際は船内に荷物を置いておけないので、ある程度以上の荷物は桟橋に預けていきます。預けるとなると先にお土産を購入してしまうのも手で、「軍艦島ラスク」や「軍艦島あられ」「軍艦島ドロップ」等石炭に関するお菓子を購入できます(http://www.jcoal. or.jp/worldheritage/04/post17.html)。

表1 軍艦島ツアー一覧

会社名 本社所在地 電話 ウェブサイト
やまさ海運㈱ 長崎市元船町17-3長崎港ターミナルビル1F 095-822-5002 http://www.gunkan-jima.net
軍艦島コンシェルジュ 長崎市常盤町1-60常盤ターミナルビル102号 095-895-9300 http://www.gunkanjima-concierge.com/
㈱シーマン商会 長崎市旭町27-26 095-818-1105 http://www.gunkanjima-tour.jp/
軍艦島クルーズ 長崎市元船町11番22号 095-827-2470 http://www.gunkanjima-cruise.jp
馬場広徳 長崎市高浜町高浜3960野々串港 090-8225-8107

13.jpg

図13 現役の頃の長崎港駅

14.jpg

図14 常盤桟橋

15.jpg

図15 常盤桟橋の軍艦島石炭

16.jpg

図16 軍艦島デジタルミュージアムの炭坑体験

乗船50分前から受付開始ですが、船が欠航した際や時間がある場合には香港上海銀行後ろの「軍艦島デジタルミュージアム」で予習をすると理解が深まります。現在では絶対味わえない600m潜る炭鉱内部への模擬降下は必見です。またいかに台風の威力が強大かは、知っておく必要があります。当時の生活もここで実感することができます。さて桟橋で乗船し、皆が揃いますと出航です。安全の説明などに続き、長崎造船所を見ているうちに女神大橋を潜りますと、長崎港外です。途中「小菅の修船場跡」をかすかに眺めることができますし、席が反対側の人のために船内のテレビモニターに写され、説明されます。香焼の新造船所が見えるとまもなく伊王島です。本土とは橋で繋がりましたが、教会が見える美しいところです。コンシェルジュ社の船は伊王島に寄港し「高島炭坑跡」は船上からの見学になりますが、軍艦島クルーズ社や高島海上交通社のように「高島」に上陸するツアーもあります。

17.jpg

図17 船上からの軍艦島全景

18.jpg

図18 軍艦島への接近

20.jpg

図19 ドルフィン桟橋到着

19.jpg

図20 台風襲来時の高波を見ている住民

どのツアーでも直行の場合、長崎市内から約40分ほどで軍艦島ドルフィン桟橋に到着です。今回は前日欠航したこともあり、波高がなお1mはありました。窓からだけ見ていても、ガラスに水しぶきで水滴が付いてきます。まずは上陸前に行けないところを海上から一周することになります。特に居住地区だった西側は解説を受けながら、船上からの見学です(図17)。端島神社や小中学校、病院の残骸をかつて人が住んでいたんだという解説を聞いた上で眺めます。ここはまさに遺跡で、アテネのパルテノン神殿やポンペイの遺跡のように、説明されないとコンクリートの壁ばかりで何が何だかわかりません。昭和47(1974)年に閉山、無人島化して40数年、当時のままで時間が止まっていることがわかります。島に上陸できるのは40分ほど、それも団体行動で、まさに観光バス同様、皆さんいいですか、写真を撮りましょうか?の再現です。しかし今回案内いただいたコンシェルジュの永田さんは、池島出身で丁寧懇切に対応いただきました。乗船前に配られる長崎市作成のパンフレットに、端島の歴史や見取り図、見学施設の解説が載っています(下記参照)。これはぜひ持ち帰り参照してくださいね。

21.png

図21 島全景(パンフレットより)

22.jpg

図22 第一広場

23.jpg

図23 第二広場

24.jpg

図24 第三広場

軍艦島の最も軍艦島らしい住宅棟群は、大正時代からの建設なので明治期の世界遺産ではなく、見学は島の南西部中心になります。指定された通路を通り、設定されている三ケ所で説明を受けます。まず橋を上がったところにある、第一広場で「貯炭場」の残骸と遠くに小中学校、65号棟を見ます。パネルを2枚用意した説明で学校の授業のように全員に見えるような配慮をしていただけます。団体写真も撮影したりする時間はあります。
第二広場は第一広場から歩いてすぐのところで、坑口階段やレンガ作りの事務所の跡を見ることができます。かつては共同浴場もあったそうです。目を海側にやりますと、比較的近くに「天川の護岸」を見ることができます。明治時代以降の島の拡張に伴う護岸づくりは、天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤を用いた石積み工法で行われました。この擁壁は、島内のいたるところでみられるもので、端島独自の景観を生み出しています。
造船所史料館でまじかに観察することができますが、明治初期に長崎で造られた薄い煉瓦は形状が蒟蒻に似ていることから蒟蒻(こんにゃく)煉瓦と呼ばれます。蒟蒻煉瓦が最後に使われたのは、明治16年のド・ロ神父による出津救助院と言われているので、軍艦島に蒟蒻煉瓦があるということは、明治16年以前に開発されていたということになります。良質な端島の石炭は主に八幡製鉄所の製鉄原料炭として使われました。石炭は端島の桟橋に着いた運搬船にそのまま積載されました。日本の近代化が進むにつれ 採炭量は増加し、そのための鉱員も多数必要になり端島は増加する鉱員とその家族が居住できるよう開発されていき、軍艦島と呼ばれる姿に変貌していったわけです。かつての生活の様子は行きの船のビデオはじめ至るところで見ることができますので、是非ご覧ください。旧プール跡横の第三見学広場が一番この住宅跡に接近できる地点です。遠くに眺める30号アパートは大正5(1916)年に建てられた日本初の鉄筋コンクリートアパートで1Kの間取りで140もの部屋があるそうです。台風が来ると、この7階立てのアパートの屋上にまで波が来るそうで、防波堤の意味もあり、西側に住居アパートが建てられています。軍艦島の建造物が廃墟になってしまったのは、地震ではなく、この波浪によるもので、上陸するために船に乗るとこのことが実感されます。ドルフィン桟橋も2度流出して現在のものは3代目だとか。

25.jpg

図25 天川護岸

26.jpg

図26 蒟蒻煉瓦

27.png

図27 デジタルミュージアムにおける炭鉱住宅内再現

28.jpg

図28 グラバー邸内の軍艦島地下構造模型

最後に公式観光サイトのキャッチフレーズを添えます。「端島炭坑は、三菱により本格的な近代炭坑として開発が進められた海底炭鉱です。高い護岸で囲まれ、煙突から煙を吐くその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。その独特の外観と雰囲気は、日本の 近代化を象徴する遺構として注目を浴びており、映画のロケ地となったり、軍艦島クルーズが行われたりするなど、観光面でも人気が高まっています。」                                         以上歴史遺産としての解説は十分なされていたのですが、残念なことに一般の方が石炭をあまり理解でき機会が少ない気がします。軍艦島中で見られる黒い石もボタなのですが、実は長崎市周辺は自然遺産としても世界遺産にしたいくらい珍しいところなのです。軍艦島高島周囲の地質はグラバー園に展示してあるので、見ていただくとして、概要は九州一古い変成岩とその中の古いオフィオライト痕跡(近くには紅簾片岩という赤い石が出ます)、白亜紀から古第三紀に至る堆積(これが石炭層に係わります)、そして日本海誕生に関係するグリーンタフ火成作用、第4紀の環日本海アルカリ岩石区とされる玄武岩類が狭い地域にこれでもかと露出しています。
図29に地質図を示しますが、それらの地質が形づくるリアス海岸が長崎の原点です。香港、モナコ、長崎の3都市が、世界を代表する夜景都市『世界新三大夜景』都市として認定されたそうです。この港の地形も地質あってのことで、キリスト教会と合わさり、すばらしい景観を呈しております。禁教と弾圧の歴史、明治産業革命、そして第二次世界大戦末の原子爆弾投下。修学旅行先として選ばれることが多いのも頷なづけます。軍艦島が閉山しなぜ無人島になってしまったのかを見て、考えてもらうことが重要でしょう。今回は前泊でグラバー園まで一連の1日行程でしたが、浦上の原子爆弾投下地点、おくんちの諏訪神社、眼鏡橋、鳴滝のシーボルト関係、そして坂本龍馬率いた亀山社中も見たければ最低もう一泊は必要なところです。是非、猫の遺伝子に南方との交易の跡を残す魅力ある長崎を訪問くださり、歴史を堪能していただければと思います。

29.png

図29 長崎市周辺の地質図

30.jpg

図30 長崎の夜景ポスター

31.jpg

図31 修学旅行ポスター

32.jpg

図32 亀山社中のポスター

③ グラバー園にて:

さて世界遺産めぐりはまだ続きます。幸いなことに午後の軍艦島行き便に乗ったとしても、16時ごろには長崎市街に帰還できますので、夏季は21時まで開園しているグラバー園にも行くことが出来ます。デジタルミュージアムの横を通り、坂を登っていく「オランダ坂」に山手居留地があります。17時に閉館する大浦天主堂は、元治元(1864)年にフランス人により建てられた「国宝」、こちらをまず訪問しておきましょう。ここは長崎で慶長2(1597)年に殉教した26聖人に捧げられ、慶応元(1865)年の信徒発見の地でもあります。このすぐ隣に、対岸の造船所を見下ろす、グラバー園があります。長崎開港とともに来日したスコットランド人、トーマス・ブレーク・グラバーが文久3 (1863)年に建設した邸宅をもとに多くの建築物を移築して出来ております。先にエスカレーターで最上部に行き降りてくるのがいいでしょう。三菱第二ドックハウスには現在世界遺産コーナーがあり、高島炭坑が明治日本の産業革命にいかに係わったかを懇切に説明しています(http://www.glover-garden.jp/glovergarden.html)。グラバーは当地にグラバー商会を設立し、薩摩・長州側に大量に武器弾薬を売り富をなしましたが、若い勤皇志士たちも支援し、坂本龍馬率いる海援隊とも商売を行っておりました。その品目に高島の石炭があることは特筆すべきことです。洋式採炭法を採用して採掘が困難であった、高島の石炭を長崎で供給しました。当時香港でも上海でも英炭(カーデイフ炭)が船舶の機関用燃料であった時に、いち早く国内でこれを供給可能にした先見の明には驚くばかりです。行ってみればわかりますが、この場所は長崎造船所の内部までばっちり観察できるところです。戦艦武蔵の建造中にそれはまずいということで造船所が買い上げた後、1974(昭和49)年長崎市に寄贈され、現在のように長崎一の観光地になっています。海外でもNagasakiは一番知られた日本の地名でした。イタリア出身の作曲家・ジャコモ・プッチーニによって作曲されたオペラ『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』は、アメリカの海軍中尉(ピンカートン)が日本の長崎で戯れにした結婚が原因ですが、そうとは知らず夫が去ってからもただひたすら信じて帰りを待った娘、15歳の蝶々さん(蝶々夫人)は、3年後に裏切られたことを知り、自分と夫ピンカートンとの間に生まれた子どもをアメリカ人 の本妻に託し自らの誇りを守るために自殺するという典型的な悲劇です。かの有名なアリア『ある晴れた日に』は、ピンカートンの"きっと帰る"という言葉を信じ待ち続ける蝶々さんの決意の場面で歌われるもので、グラバー園の中に像があります。
シーボルトの鳴滝塾も黒船来航以前の鎖国日本で唯一の西洋技術の仲介先として出島に次ぐ聖地でした。そこに長州(正確には周防)吉敷郡鋳銭司村(現在の山口市内)生まれの「大村益次郎」が係わっていたことは、司馬遼太郎の「花神」を読んでいただければわかると思います。だいぶ前のNHK大河ドラマで覚えていらっしゃる方もいるかも知れません。シーボルトの娘イネとの関係は推測していただくことにして、長崎の後、大村益次郎(当時は村田蔵六)は宇和島に行き、鹿児島、佐賀と並んで洋式軍艦の製造に成功したのでした。ペリーによる黒船来航のわずか2年後の1855(安政2)年のことでした。1865(慶応元)年には長崎から上海に密航もしております。大村益次郎はばりばりの長崎通なわけですが、当時の新しがり屋のように、「長崎」にいたというだけで蘭学の一端に触れ、西洋の一端に触れることができる、と勘違いすることは今でもできます。
更に釜石で日本の製鉄開始に尽力した南部藩盛岡出身の「大島高任」が長崎で採鉱術を学んだことにも注目したいと思います。嘉永6(1853)年、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊に反射炉を建造し、大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4(1858)年に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功します。この釜石の製鉄設備も明治産業遺産とされましたが、そのルーツは長崎にあるといってよいでしょう。この時期の他の産業遺産の地も何らかの形で長崎と関係があり、長崎の地に行くことは、少し前の欧米留学以上のものがあり、当時の長崎のもつ磁性を感じさせてくれるものとなっています。ちゃんぽんにカステラ、まだまだ長崎を語り尽くすことはできません。ここで朗報です。本稿時点で閉館リニューアル中であった、野母崎地区にある「軍艦島資料館」が本年7月16日から開館します。その紹介はまた後で。では皆さん近いうちにまたお会いすーで、んじゃね。

33.jpg

図33 グラバー低

34.jpg

図34 グラバー像

35.jpg

図35 蝶々婦人像

36.jpg

図36 東京靖国神社の大村益次郎像

37.png

図37 軍艦島資料館ポスター


ページの先頭へ