日本の炭鉱世界遺産

日本の炭鉱遺産

日本の石炭鉱業は、明治初期に産業として成立し、日本の経済発展及び国民経済の向上に大きく貢献してきました。
その過程で、幾多の厳しい状況に直面しながらも着実にこれを克服し、生産・保安技術を蓄積し、世界でも高い技術水準に到達しました。
これは石炭鉱業に関わった多くの先人達の苦労と努力の積み重ねから生まれたものです。     

2015(平成27)年の第39回世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が、UNESCOの世界遺産リストに登録されました。
岩手県から鹿児島県にまたがる8エリアに点在する、幕末の1850年代から明治末期の1910年までの23資産が一挙に登録されました。
日本経済の屋台骨を支える基幹産業であった石炭は、日本は工業立国の経済的基盤を築き、奇跡とも呼ばれる急速な産業化を果たす原動力でした。
この産業の足跡は世界遺産にも認められたものもあり、人類共通の財産でもあります。そこで、以下に日本の石炭産業の変遷について概説したいと思います。

1. 石炭の発見

石炭発見の歴史は、非常に古くさまざまな伝説や古文書に見うけられますが、資料があるものは、九州三池地方における――1469(文明元)年1月、三池郡稲荷村(とうかむら:現在の大牟田市にあたる)の百姓伝治左衛門が近くの稲荷山に焚き木を取りにいき、枯葉を集めて火をつけると、突然地上に露出していた黒い岩が燃え出した。
これが"燃える石"つまり石炭の発見である、 と伝えられています(安政六(1859)年。橋本屋富五郎発行 『石炭由来記』外)

2. 江戸時代の状況

17世紀後半には,石炭は筑前・長門地区等で、薪の代替として家庭用燃料など自家消費を主たる目的として利用されていた事が報告されています。産業用に石炭が使用され始めたのは18世紀初頭になってからで、瀬戸内地方で製塩業者向けに販路を見出すと大きく発展を遂げました。                               

一方海外では、1765年イギリスでワットが蒸気機関を改良し、これによって石炭は蒸気機関向けの燃料として注目されるようになりました。鉄道や船舶の燃料として石炭は大量に使用されることになりました。産業革命の幕開けとなったのです。そして江戸時代の末期に日本が開国したことで、日本の石炭は外国船の燃料用としても供給されるようになりました。長崎を中心に活躍したグラバーは、高島炭坑の開発に尽力しました。

3. 明治時代に入り

鉄道開通など文面開化が進展した明治初頭の国内の石炭生産地は、九州の筑豊、三池、長崎、本州の宇部、常磐、北海道の白糠、茅沼、幌内、夕張等の地域であり、その後各地へと広がっていきました。また上海、香港など海外需要に応える輸出も盛んに行われていました。1874(明治7)年の石炭生産総量は21万t、その内輸出量は12万tを占めていました。その後も石炭生産量は急速に増加し、1883(明治16)年には100万t、1888(明治21年)には200万tに達しました。一方鉱山事故も頻発するようになり、1890(明治23)年には鉱業条例が公布され、鉱山保安に関する規定が設けられ、農商務省に鉱山局が設置されました。明治の中期にかけての採炭等の技術は人力から蒸気に移り排水、運搬等の機械化が進展し、日清、日露両戦争を経て急速に発展し、主要炭鉱ではポンプや巻上機が設置され、大きな煙突の光景が見られるようになりました。

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図1 1975(昭和50)年発行の明治年間のSL切手
1901(明治34)年に九州八幡に一貫式高炉が建設され、鉄鋼製品の国内生産が本格化しました。鉄鋼用に国内の石炭が大量に使われることとなりました。その結果、石炭生産量は1902(明治35)年に1000万tを達成しました。1910(明治43)年には1570万tの水準に増加しました。当時の石炭使用別の内訳を見ると、船舶用(240万t)、鉄道用(120万t)、工場用(含製鉄430万t)、製塩用(90万t)となっています。石炭産業に従事する労働者も増加し、明治末期には15万人となりました。

4. 大正―昭和時代前半(第二次世界大戦以前)

炭坑開発は、日本国内のみならず、新たな領土となった台湾・樺太・満州(中国東北地方)へと広がっていきました。しかし1920(大正9年)の第一次世界大戦後の世界経済恐慌のあおりを受けて,日本の石炭産業も不況の波に見舞われることになりました。石炭需要は激減し,石炭価格は急激に下落してしまい、休山する炭鉱数や失業者数は増加してしまいました。                                    その後昭和に入り、重化学工業を中心とする軍需産業海運業、電力業界なども活況を取り戻し、石炭産業の発展が続くことになりました。特に1937(昭和12)年 の日中戦争開始以降は石炭需要が急増し、石炭供給不足に直面することになりました。(生産量は1937(昭和12年)に4530万t、1939(昭和14)年に5110万t、太平洋戦争に突入する1941(昭和16年)には、5647万tとなり日本の産炭史上での最大値を記録しています。端島炭坑の外観が軍艦のようになってきたのもこのころです。

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図2 2015(平成27)年発行の地方自治法施行60周年切手(長崎県)

5. 昭和時代後半~平成年代 (第二次世界大戦以降)

1945年(昭和20年)8月に太平洋戦争=第二次世界大戦は日本の敗戦で終結しました。日本の国土は荒廃し、1945年の石炭の生産量は2230万tまで低下してしまいました。そこで戦後復興の重要政策として、石炭・鉄鋼の増産に集中する「傾斜生産方式」が実施され、石炭生産量は1948(昭和23)年に3480万t、1951(昭和26)年に4650万tまで回復しました。しかしその後、エネルギー利用の分野では世界規模で変化が起きつつありました。1950年代に中東やアフリカに相次いで大油田が発見され、大量に安く供給された石油は工業化の進展に伴いさまざまな交通機関、暖房用、火力発電などの燃料として、その消費量が飛躍的に増えました。このような影響を受けて日本の産業界でも石炭から重油へという燃料転換が急速に進むことになりました。これをエネルギー革命と呼んでいます。1962(昭和37)年に、初めて石油が石炭を抜いてエネルギー供給の首位の座に就くと同時に、鉄鋼業界は安価な海上運賃を背景にして海外の原料炭輸入にシフトしていきました。電力業界でも石炭よりも安価な石油が主体となっていきました。        

一方国内の石炭会社は坑内掘りが主体で、採掘条件は決して恵まれず、生産コストは上昇し、経営は苦境に追いこまれてしまいました。1991(平成3)年石炭鉱業審議会は「ポスト八次石炭政策」を答申し、国内炭生産の段階的縮小を図ることにしました。この方針により、これまで生産を続けていた炭鉱も漸次閉山していき、高島炭坑は1986(昭和61)年に、三池炭坑は1997(平成9)年に閉山となってしまいました。現在では北海道で坑内掘り1鉱と露天掘り数鉱が生産を続けるだけとなり、生産量も120万t程度になりました。一方で日本の石炭輸入量は世界一となり、2013(平成24)年で約2億tにも達しております。今なお日本の石炭は電力・船舶、鉄鋼、繊維、化学,セメント産業など多数の業界で使用され続けている資源であり、日本経済を支えている主要なエネルギーであり、エネルギー全体の1/4を占めております。                           

これらのことからわかるように産業のライフサイクルという視点から日本の石炭産業はその典型的な栄枯盛衰を経験してきました。石炭という資源に視点を置いて日本経済の行く末を展望することは、エネルギー供給という重要な課題を見るときに大きな教訓を与えてくれることになるでしょう。最後に改めて石炭鉱業に携わった先人たちのご努力とご苦労に深く敬意を表し、同時に多くの尊い犠牲者に対してご冥福をお祈り致します。

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図3  2008(平成20)年発行の近代製鉄150周年記念切手

参考 (小田野・荒谷2007):日本のエネルギー産業の構造変化、彦根論叢367


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