筑豊地区産業遺産

旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓,伊田竪坑第一・第二煙突

明治中期以降、紡績業や機械工業等の発展とそれに伴う鉄道、海運の拡大により、当時の主要な動力であった蒸気機関の燃料としての石炭の需要が飛躍的に高まりました。また、主としてアジア向けの石炭輸出も増大の一途をたどっていました。そのような状況に対応し、中央資本を中心として炭坑の大規模化が進みつつありました。

1900年に田川採炭組を買収して発足した三井田川炭礦(後の三井田川鉱業所)においても、1905(明治38)年から伊田町(現田川市伊田)において大竪坑の開鑿を開始しました。湧水、ガス爆発等の障害を乗り越え、30名の死傷者を出しながらも、1910(明治43)年に完成しました。

伊田竪坑は、第一竪坑が361.8m、第二竪坑が362.4mあり、完成当時、三菱方城(ほうじょう)炭鉱竪坑(福岡県福智町)、日鉄二瀬炭鉱竪坑(同飯塚市)と共に日本三大竪坑と称され、深部採炭時代の到来を告げる象徴的な炭鉱でした 。

また、煙突は、その巨大さが建設当時の人々に驚きを与え、炭坑節に「・・・あんまり煙突が高いので・・・」と歌われて、後世に伝えられました。

第一竪坑櫓はイギリス様式のバックステイ型で、イギリスのアレクサンダー・ファインドレー社によって建設されました。イギリスからの輸入鋼材で建造されており、鋼材には「LANARK SHIRE STEEL Co.」「GLEN GARNOCK STEEL」の刻印が見られます。

大きさは、第二ステージまでが、約23m、プーリー(滑車)の枠の最高所までが28.4mあります。

第一・第二煙突は、北側に所在していた汽罐場(ボイラー室)に付属する排煙用の煙突として、竪坑掘削と同時に建設されました。煉瓦製で、両者とも45.45mあり、内面には、耐火煉瓦を使用していました。煉瓦はドイツ製と伝えられています。耐火煉瓦は国産で、刻印により、大阪府・岡山県で製造されたことが分かっています。

竪坑櫓、煙突とも、平成19年10月に国登録有形文化財に登録されました。

三井田川鉱業所は、1964(昭和39)年3月に閉山し、伊田坑は、第二会社の新田川炭鉱として継続されましたが、1969(昭和44)年5月に最終的に閉山しました。

その後、伊田坑跡は放置されていましたが、1979(昭和54)年から、石炭記念公園の整備が行われ、その過程で、第一竪坑櫓と第一・第二煙突を残して、他の施設は撤去され、第二竪坑櫓は直方市に寄贈されました 。

第一・第二煙突は、1979(昭和54)年に永久保存のための補修・補強工事が行われ、さらに、2007(平成19)年に外面の煉瓦の修復工事が行われました。

竪坑櫓は、1981(昭和56)年、1986(昭和61)年、及び2004(平成16)年に補修・再塗装が行われています。

旧伊藤伝右衛門邸

1896(明治29)年、新たに建設される官営製鐵所の候補地調査が行われ、各地で熱心な誘致合戦が行われた結果、翌1897(明治30)年、八幡が建設地として決定します。八幡が選ばれた理由はいくつかありますが、筑豊炭田に眠る豊富な石炭の存在が大きな要因の一つとなりました。政府は原料・燃料炭の安定確保の為に筑豊炭田のいくつかの坑口を買収し、1899(明治32)年「製鐵所二瀬出張所」として経営します。製鐵所の設立、そして創業後も筑豊炭田は製鐵所と密接な関係にありました。

旧伊藤伝右衛門邸は筑豊炭田の有力炭鉱主の一人、伊藤伝右衛門の本邸宅として建設されたものです。1860(万永元)年、飯塚市幸袋で出生した伊藤伝右衛門は、安川・松本家の協力を得つつ筑豊炭田の開発において頭角を現し、中間市の中鶴炭鉱を中心に事業を展開、泉水炭鉱、宝珠山炭鉱等を経営し、筑豊御三家(麻生・貝島・安川)に次ぐ有力鉱主となりました。伝右衛門が所有していた牟田炭鉱は1907(明治40)年、官営製鐵所に売却され、製鐵所の原料・燃料炭供給源の一つとなりました。

本邸宅は筑豊炭田の中心的な場所と言える飯塚の地に明治30年代から新築が始まり、三度の増改築を経て現在の形になりました。当時の炭鉱主にとって重要な要素である接客を念頭に置いた上で日常の生活空間も重視した増築を行っています。
主屋には玄関の西隣に洋間の応接室、東隣に書斎が配されています。北棟に本座敷、主人の居間となる中座敷、奥座敷があり、奥座敷の二階は伝右衛門の妻で女流歌人として著名な柳原白蓮の居室が残っています。屋敷地の北側には広大な回遊式庭園が設けられました。主要な部屋が全て庭園に面しており、建物から庭園への眺望を重視した作りとなっています。また、当時の炭鉱主の邸宅に多く見られるように、和風を基調としながら洋風の要素も取り入れています。

建物は2007(平成18)年に飯塚市有形文化財(建造物)となり、庭園は2011(平成23)年に国の名勝に指定されました。
2007(平成18)年に飯塚市が当時の所有企業から建物の寄付を受けました。市では2007(平成18)年から2008(平成19)年3月にかけて修復・整備工事を行い、同年4月から一般公開を行っています。